世間に土下座致して為すのが出家世間に土下座致して為すのが出家(釈尊の魂は、臣民に対して、ずっと詫び続けている)「人を裁くことできない」 裁判員制度で善光寺住職 に関して。この考え方を致すと、焼身自殺を致した大雄山最乗寺の住職、慧春尼と同じ状態に追い込まれてしまうではないか。食物連鎖の現実の否定になるので。我々は、水よりも価値の有る生き方を致す支払いを致して、水を飲む。同様に、植物、動物も食べる。私はその支払いを致し続けて、生きているのです。これが現実を生きるという事です。釈尊の教えと、大乗仏教の教えとが異なっている点はそこなのです。釈尊は、供養を受けて、生きていた。即ち、最低限の生存費用だけを払って、生きていた。これが仏教の原点であると私は思うのです。最低限の生存費用分の業、カルマを、忍耐の修行生活によって、消化致すという事をやっていたと。私は、このレベルでの生活が、仏教徒のやらなければならない事であると思うのです。殺生のカルマの報いを受けて、苦しむと。これが出家者の役割と。もしくは、社会的責任を取って、社会改良の為に働くかと。これをやると、釈尊よりも上の生き方と。勿論、私も社会改良の為に働き続けています。出家者ではないから。15年間、お給料を戴いていたのだから。今は、精神障害者1級の状態なので、復職など、遥かに遠い現実なのですが。 釈尊は、大乗仏教など説いていない。そんな観念的な事、言えるわけないのだ。自分がやっていないのに、どうして、やれと言えるのか。言えるわけない。だから、私は、大乗仏教は魔界が作った観念の世界と判断致しています。以上の私の見解を、非童貞である全ての私の上司の方々に、謹んで、御報告致します。宜しく御願い致します。H20.12.1.月 20:20。(極悪党の兄が出家致したから、美形の妹は顔を焼いて、出家致して、最後は、焼身自殺まで致さざるを得なかったのです。私はこの兄を極悪党であると思います。妹をここまで追いつめたのだから。これが私の人間と致しての心なのです。出家はエリートではない。在家者皆に、「御免なさい。限界です。」と土下座を致して、為すものなのです。これがおそらく、釈尊の魂なのです。王子であった釈尊の魂は、その王子と致しての責任を全うできなくて、自分の王国の臣民達に、ずっと、ずっと、ずっと、詫び続けている筈なのです。) |